発達障害だと思っていたら、愛着障害だった私の話

しくじり人生の中で気付いたことを共有するブログ

【しくじり人生⑨】自分に問題があると認められず、迷走する話

今回は、自分と向き合うことを無意識に避け、明後日の方向へ走り出すお話です。

 

前回の記事↓

mauve-jasmin.hatenablog.com

 

◆ 養われたくない…!

正社員の仕事を半年でクビになったぐみさん。すっかり自信を失くしてしまいました。元彼は「そんなに辛いなら仕事辞めて俺の扶養に入ってもいいよ」と言ってくれましたが、どうしても嫌でした。なぜならば、自分の人生を自分で選べない母のような人間になりたくなかったからです。現在、彼女は自分の人生にそこそこ満足していると思いますが、姉がUターン就職するまでは自分の夫(つまりは私の父)に対する憎悪がすごかった。子どもの頃から愚痴をたっぷり聞かされました。

確かに父は自分本位で思いやりに欠ける言動が多々あり、「稼いでいる俺が一番偉い。だから自分は大切にされなければならない」という考えを家族に押し付ける割に、自分は家族を大切にしない人でした。正確に言えば、母と私を大切にしなかった。自分の親や私の姉のことは好きでしたけどね。愛情にムラがあり、それを表に出してしまうタイプと言えるでしょう。

そんなわけで、夫婦関係は対等ではありませんでした。父が「大黒柱だから」という理由で我を通し、母がむっとした顔で従うのが常でした。母もそれなりに我が強いので、反発心からぶつかり合いは頻繁に起こりますが、問題の根っこが見えていないため話が噛み合わず、子どもの私が見ても「なんか変」と思うくらいおかしな夫婦でした。

「金さえあれば離婚するのに」

「浮気してくれれば、慰謝料をたっぷりもらった上で相手の女に熨斗つけてあげるのに」

と母はよく言っていました。

そりゃあ自分を大切にしてくれない人と一緒にいたくないですよね。分かります。

けれど、彼女には二の足を踏む理由がありました。

それは『経済的に自立する自信がない』ということです。

母は私たちが小さいうちは家庭に入り、高校生になってからは扶養の範囲内で仕事をしてきました。父は「男は仕事、女は家事」という考えが強く、母は家庭を守るためにこの道を選びました。

「稼いでいる俺が一番偉い」という父の考え方は間違っていると思います。母がしっかり家庭を守ってくれているからこそ父は仕事に専念出来るし、自分の子を二人も産んで育ててくれた女性をないがしろにしていいはずがありません。夫婦に上下はないはずです。母はちょっとズレたところがあるので、見下していたことも父が母を軽んじる一因だった気がします。

母は、嫌いな夫と一緒にいたくないけど、生活のために夫から離れられないというジレンマを抱えていました。

そもそも母が父を嫌いな理由は『寂しいから』だと思います。愛情と憎悪は紙一重って本当ですね。私が元彼と八年に渡る同棲を解消したのも寂しかったからです。おバカな私を愛しつつも内心見下していることが我慢ならなかった。『この女は俺がいないと生きて行けない』という思い込みをぶち壊したかった。でも、今は夫となる人には『この女は俺がいないと生きて行けないから守ってあげなくては』と思って欲しい。何でも出来るけど何も出来ないフリをしたいですね。

 

かつて両親の姿から学んでしまった『女性は仕事を手放すと夫に見下されてしまい、対等な関係を築けなくなる』という思い込みは、私を元彼の扶養に入って新しい家族を作る、という選択肢を避ける方向に進ませます。フルタイムで働きたがる理由を「私には社会性がないから、それを育てるには仕事をするのが一番」と説明しましたが、元彼は「俺の親族と付き合うことや扶養の範囲内でパートをすることでも社会性を育てるのは充分可能なはずだ。君はいったい何と戦っているの?」と疑問を呈しながらも私の意思を尊重してくれました。ごめんね、私は自覚のない思い込みに縛られており、あなたを信用しきれませんでした。世界の姿が歪んで見えていた私にはあなたと手を取り合ってうまくやっていく方法を探す発想がなく、「大切にされたい」という気持ちだけ握りしめてあなたを逆恨みしていました。

 

◆ 大人の発達障害だと思って検査したら違った

ベンチャー企業で辛酸を舐めていた頃、(私はなぜ仕事が出来ないのだろう?)と悩んでいました。ところが考えようとすると思考停止状態に陥り、上手く行きません。そこで家のパソコンで『仕事』『できない』で検索すると、『大人の発達障害』という症状を見つけます。自分の状況とガッチリ一致するように思えました。みんなと違う理由が分かったような気がして、すごくほっとしたのを覚えています。

関連サイトで『現状を受け入れて、上手につきあっていくのが大事。それにはプロの手を借りるのが一番』という趣旨の文を見つけ、専門機関を探して検査を受けることにしました。けれど無職でお金がないため、まずは無料で検査を受けられるところがないか探してみたところ、東京都が運営する公的機関で受けられる仕事適性検査が発達障害の検査と近い、という情報を見つけたので早速予約をして行ってきました。

検査結果は、素人目には発達障害の傾向が強く出ているように見えます。また、「あなたは芸術家や職人といった仕事が向いている」と分析した職業アドバイザーから有益な情報を手にしました。技術系の職業訓練校の存在です。受講を視野に入れつつ、(次は発達障害を診てくれるお医者さんを探さないとな)と考えました。

ところが大人の発達障害を診てくれるところは少なく、予約しても半年先というのはザラでした。子どもと女性専門のお医者さんを見つけ、運よく一ヶ月以内に診てもらうことが出来ました。

待望の検査結果は、『ぐみさんは発達障害ではありません』でした。

お医者さんは『認知に問題があるようだ』と仰います。例えば、検査のひとつに「津波という言葉の意味を教えてください」という質問があり、「大きな波です」と答えました。正直に告白すると、その検査は頭をとても使うためすごく疲れていたので適当な答えを発しました。その不誠実さを先生は見抜き、『性格の問題です』と仰ったのだと思います。

とてもガッカリしました。人と違う理由が別のところにあるとハッキリしてしまったからです。セカンドオピニオンも考えましたが、どこに行っても同じような気がしたので辞めました。

 

就労できない事情がないなら、再び仕事をしなくてはいけません。しかし、次の職場も人間関係が上手く行かずに退職するような気がして仕事を探す気力が湧きませんでした。ところが私は就労意欲だけはあります。そこでまた斜め上の発想が飛び出ました。

「私に合った仕事、天職を探そう!」

長所に目を向け、いいところを最大限に伸ばすという意味の『天職』だと思いますが、私は自分に都合の良いように曲解していました。人として問題のある欠点を改善しようとせず、仕事を自分に合わせることばかり考えていました。どんな仕事かというと、『人と関わらない』『自分のペースで出来る』『自分にしか出来ない、替えがきかない』職です。

妙に運のいい私は、発達障害を持っている人に向いている仕事とされる技術系の職が、職業訓練校で安く学べることに気付いたのです。

「これは運命だ」と思い、体に稲妻が走ったような気すらしました。

早速応募し、合格をもぎとりました。二回目の職業訓練校にも関わらず、倍率三倍という激しい競争の中で生き残れたのは第一印象が良かったからだと思っています。

 

◆ 自分のペースで出来る仕事なんてないと悟った一年

職業訓練校に通う一年ものあいだ、雇用保険の給付金をもらいつつ技術の取得に励みました(生涯で支払う雇用保険料より多額の給付金を頂いているので、雇用保険制度には頭が上がりません。現在、全く関係のない仕事に就いていることを申し訳なく思っています。将来的に多額の雇用保険料を納付できるよう頑張る所存ですので許してください)。

中身は自分本位なままなので、ここでも人間関係のトラブルを起こします。言動を面白おかしくいじられて笑われたり、私だけ飲み会に呼ばれなかったり、一部の先生に嫌われて放置されたりと色々と辛いことがあった日々の中に、自分の言動を振り返るきっかけとなる金言がありました。朝礼で担任の先生が仰ったことです。

「教わるのが上手くない人が目につきます。自分の都合を押し通そうとせず、先生たちのことをよく見て、質問をするタイミングや内容などをよく考えてください」

目からウロコが落ちました。そんな発想、私にはなかった。思えば『私が知りたいから』という一心で配慮のない質問の仕方をしていました。伝わるよう言葉を選ぶこともなく、『先生なら何でも知ってるでしょ。私が分からないことを早く教えてよ』と傲慢な考え方をしていました。例えるなら、先生のことをボタンを押すと答えが出てくる機械とみなし、しょっちゅう自分のタイミングで押しに行くようなものです(数年後、同じことをされた時に痛感しました)。

また、技術系は時間厳守、費用削減が必須です。先生たちの口癖は『早く、正確に』でした。私は生意気にも『初めてやることなんだから時間がかかるのは仕方ないでしょ、大目に見てよ』と開き直って自分のペースを死守していました。そうすると、限られた時間内で課題をこなすことが出来ません。挽回できないほど周囲と差がついたころ、ようやく悟りました。

「この世に自分のペースでやっていい仕事はなく、限られた時間の中でベストを尽くそうと頑張ることが真理なんだ。仕事を自分に合わせるのではなく、自分を仕事に合わせていこうとする気持ちが大事なんだ」

 

気付いた頃には時すでに遅く、この道で食べていける程の技術と自信がないまま卒業式を迎え、一ヶ月ほどの抜け殻期間を経て派遣会社へ数年ぶりに顔を出しました。職業訓練校生時代に誰よりも抜きんでていたのはOAスキルしかなかったので、事務職に戻るのが最適だと思ったからです。

派遣会社のスタッフは出戻った私を温かく迎え入れ、早速新しい仕事を紹介してくれました。それは、簿記の資格とベンチャー企業での一人事務の経験を生かせそうな人事アシスタント業務でした(追われるように辞めたこと、首になったことはもちろん言ってません)。

 

続きます。