発達障害だと思っていたら、愛着障害だった私の話

しくじり人生の中で気付いたことを共有するブログ

【しくじり人生③】 貴重な3年間を無気力に過ごし、何者にもなれなかった高校時代

家から近い、第一志望の公立高校に無事に合格し、晴れて高校生となった十数年前のぐみちゃん。

 

悲しいことに、びっくりするくらい何の思い出もありません。部活は幽霊部員だったし、夏休みのような長期休暇は誰とも遊びに出掛けず、引きこもって同じテレビゲームばかりしていたし、一番盛り上がるはずの三年の文化祭は参加せずに帰宅しました。

 

既に私の中に根を張っていたインナーチャイルドにエネルギーを吸い取られていたため異常に無気力で、何をする気にもなれませんでした。

また、機能不全家庭仕込みの言動のヤバさで、虐められることはなかったけど微妙に嫌われていました。可哀想だけど自業自得ですね…。

 

◆ 花のJK時代の奇行一覧

 

① 女子を外見でえり好みするクラスメイト(男子)の悪口を本人の後ろでいけしゃあしゃあと喋る

 

聞かせるつもりで話しているわけではありません。

 

『それを聞いて相手がどう思うか』という共感力に欠けていたこと、『私の発言なんて誰も聞いてないんだから、これぐらいいいだろう』という謎の甘えがあったように思います。

自分が家族にされていたことで、人にやってはいけないことだという認識がありませんでした。また、外見至上主義の父への怒りをぶつけていた気がします。

あの時は本当にごめん。二度とこんなことはしないので許してください。

 

② ①のことなどなかったように同じ男子に笑顔で話しかける

 

言動に一貫性がなく、相当気持ち悪いですね。案の定「この女、頭おかしい」と言われていました。聞こえる距離で悪口を言っておきながら、何事もなかったかのように笑顔で話しかけるのはうちの家族の常套手段だった、というのは言い訳にならないけど、あの時は本当にごめん。

 

気に入らないことがあると、友達を無視する。

 

これは家族、特に母親にされていたことです。陰湿なことに、相手を選んでやるからタチが悪かったです。根性ひん曲がってますね。それで数時間後「ごめんね」と謝るまでが1セットでした。謝るくらいなら最初からするなよ、バカ。

 

ところが、「何で私こんなことしちゃうんだろう」と自分を責めることはありませんでした。

深く考えてしまうと『家族にとって私はいらない子。だから何をしても無駄』という当時の私にとっての事実と向き合ってしまうため無意識下でブレーキを踏んでいたのでしょう。見たくないものは見ないスタンスです。

 

④ 周囲の人を見下す

 

それは言動にも表れ、友達に『●●は相変わらずバカそうだねー』と唐突に話しかけることもしばしば。それを聞いたクラスメイトに『友達にそれは酷いよ』と咎められ、ムカついて無視しました。

 

これは母が周囲の人を馬鹿にしていたことが原因でしょう。母の真似をして誰かをこき下ろす(特に父)と彼女はとても喜びます。嬉しくなって繰り返すうちに習慣になっていました。当然のことながら、現在この癖はありません。

 

◆ 嫌われ者の悩み

JKだった私、性格悪すぎだろ…。

書いてて頭痛くなってきました。今も当時の仲間で集まることがあったら、私の話が出ることでしょう。だってマジで頭おかしいもん。よくイジメに遭わなかったなと思います。みんなの人柄が良かったのか、私がクレイジーすぎて関わりたくなかったのか。

 

さて、こんな謎生物のぐみちゃんには、誰にも言えない悩みがありました。

それは『大人になった自分が想像できない』ことです。将来の私がどんな仕事をして食べていくのかを考えると、地面が崩れて何もない場所に放り出される、というイメージが湧き、恐怖からそれ以上の思考を放棄してしまうのです。

そんなんだから、得意だった勉強も身が入らず、成績はズルズルと下がっていきました。

 

◆ 子どもに養って欲しい、と考える親はどれくらいいるのだろう?

当時は薬学部を志望していました。

 

なぜならば、『薬剤師は儲かるから』という理由で母が希望していたからです。

彼女は、大嫌いな夫の元を離れて娘に養ってもらうことを強く望んでいました。

 

また、父も『将来金持ちになって俺を養ってくれ』と良く言っていました。

 

子どもにぶらさがるんじゃなく、自立することを考えろよ、バーロー!と今なら言えますが、親に愛されたいぐみちゃんです。彼らの期待に応えたい。けれども、自分のやりたいことではないし、適性がないから勉強しても頭に入りません。

 

そもそも、家族の理不尽な攻撃から身を守ることばかり考えていたぐみちゃんに、自分の未来を思い描く余力などあるわけがありません。将来に思いを馳せたときの漠然とした恐怖の正体は、(私はちゃんとした大人になれるのだろうか)という不安だったと思います。

 

自分の家族がおかしいことに気付いていたけど、彼らに働きかけることはしませんでした。自分は変えられても、他人は変えられないと分かっていたから。生きるために自分の価値観を歪め、異様で過酷な環境に適応しました。

 

親の希望とはいえ、明らかに適性のない学部へ進学することはどうしても嫌でした。三年の冬に「本を読むのが好きだから、文学部に行きたい!」と幼い主張をし、むりやり進路変更をしました。

 

とはいっても、将来の夢がないため勉強に身が入らず、受験した三校は全滅しました。卒業式の日に慌てて二次募集の試験を受けるも、見事不合格(なお、後日渡された卒業アルバムのメッセージ欄は真っ白でした。人望のなさに泣けてきます)。

 

高校卒業後、浪人生として一年間予備校に通うことになりました。

うちの親って教育費だけは惜しまなかったんですよね。それは感謝しています。

 

その事実をつい最近まで『高給取りになった娘に養ってもらうための先行投資』だと捉えていましたが、実際はどうなのか分からなくなって来ました。

 

ぐみが望む環境を与えてあげたい」という親心だった可能性もありますよね。これほどまでに両親、特に父への思いをこじらせているのは、冠婚葬祭以外で父と会った回数が10数年のうち、片手に収まる程度だからかもしれません。年に一回、お正月に帰省をすると父は自分の実家に行っていて話すらしないから当然か…。寂しいですねぇ。