火垂るの墓を十年ぶりに観たら、愛着障害をひとつ乗り越えた話
お久しぶりです。
ぐみは元気です。
先月のPVが1000を突破したというお知らせに今更気付きビックリしています。
ありがたいことです。
私の経験が悩んでいる皆さんの糧になればいいなと思います。
さて、愛着障害シリーズですが、新作は非常に難航しています。
まだ当事者だからでしょうか。上手く気持ちがまとめられず、文章を書くこと自体が辛くなり、足が遠のいていました。
時間の経過か、バランスの良い食事を摂るようになったからか元気が出てきたので、リハビリを兼ねて日頃の想いを形にする作業を再開します。
◆ すぐ泣く理由が三十年越しに分かった
私は昔からすぐ泣きます。
ほぼ自分のために。悲しかったり、悔しかったり、ムカついたときなどです。嬉し泣きの記憶はないので、本当に自己中な人間ですね。
とはいえ、生死が関わる物語に対しては決壊したダムのようにダバダバと涙が出ます。
でも何で泣いているのか今まで分かりませんでした。「彼らが可哀想」とか「けなげ」などの綺麗な気持ち由来じゃないことは確かです。
この文章をまとめているときに、『自分のため』だと気付きました。生きるか死ぬかの崖っぷちに立っている彼らは誰が見ても可哀想で、そんな人々に自分を投影して『私可哀想』と思いっきり自己憐憫してたんだな…。
きっかけは、昨日の金曜ロードショーで放送された「火垂るの墓」を見たことです。
◆ おかしいな?「火垂るの墓」で号泣する気満々マンだったのに、全く涙が出ない
十年前の私は、本作品を見て大泣きしていました。
翌日は瞼が腫れて一重まぶたになるほどに。
「清太と節子が可哀想!親戚のおばさん酷い!!嫌い!!!」と本気で怒っていました。
でも、十年ぶりに観たら、「おばさん、言うほど酷い人じゃなくね?」と思いました。
確かに言葉はきついですが、内容は至極まともです。
また、「長いことお世話になりました」と出て行く兄妹を見送った時の表情は「疫病神が出て行ってせいせいした!」ではなく、「大丈夫かな、あの子たち」のように見えましたし。
◆ 十年越しの感想に変化が…
十年ぶりに観て、目についたのは清太の幼さでした。
14歳はまだ子どもだけど、妹の節子を守れるのは君だけじゃないか。
母を亡くしたショックで心が退行していたのかなとも思うけど、幼い妹と一緒に遊び回っていてどうする。海ではしゃぐ兄妹を、海水を取りに来た親子が唖然と見つめているカットに十年前は「何も悪いことしてないのに、非難するようにじっと見るなんて酷い!」と憤っていたけど、今なら分かります。みんな生き抜くため必死なのに暢気だなーと思いますね。
十年前は思慮の浅い頭で観ていたからか、細部まで覚えておらず、窃盗で捕まったことを今回初めて知りました。人相が変わるほど殴られた顔を節子に見られて、「二人だけでは生きて行けない。意地を張るのはやめよう」と悟れなかったのが残念でなりません。
『やりたくないことはやらない』という清太の姿が、社会から孤立していた頃の自分と重なります。
当時の私は、
『何も知らないんだから』
『若いんだから』
『大目に見てよ』
『優しくしてよ』
と思っていました。
義務を果たさずに開き直る姿は本当に可愛げがないですね。
優しくしてもらいたいなら、人の役に立つことで自分に出来ることを模索しなさいよ、と当時の自分に言いたくなりました。まぁ、聞く耳絶対持たないですけどね。
こういった日々の気付きでしか愛着障害を克服する方法はなく、気の遠くなる話ですが、思いがけないところで新しい発見があるので楽しみつつ付き合っています。