罪悪感が愛着障害の根っこにあった件
お久しぶりです。
ぐみは元気です。
二ヵ月に一回のペースでカウンセリングを受けるようになり、二年半が経ちました。
過酷な幼少期を生き抜くために身に付けた思い込みから解き放たれ、随分と楽になりました。
世界はいい意味で単純で、幸せは常に私と共にある、と思えるようになってきました。
家族、主に父への憎しみも、無駄にしてしまった20代に対する後悔も薄れてきました。
このブログの過去の記事を読み返し、『思い込み激しいな~』と苦笑するくらいの余裕も出てきました。
それも全て、生存本能に直結するレベルの思い込みに気付くことができたからです。
◆ 何度カウンセリングを受けても克服できなかった恐怖と怒りについて
①人の目線が怖い
②笑い者にされるのが怖い
③私の近くで楽しそうに話をする人たちが怖い
④無視されるのが怖い
それぞれ解説していきます。
①人の目線が怖い
とはいっても、気の置けない人と話すとき、それ以外でも一対一で話すときや仕事の話をするときは全く怖くありません。恐怖を感じるのは、ちょっと離れた距離から理由も分からず見られているときです。ふと目線をやった先で誰かと目が合うと最悪です。咄嗟に目を逸らしてしまいます。普通の人は目が合ったらニコッと笑うそうですが、私にとってアイコンタクトは『絶対に出来ないこと』のひとつでした。
②笑い者にされるのが怖い
尊重されないのは誰でも嫌なものですが、私の場合は重症でした。必要以上に傷つき思考停止してしまい、無気力状態が幼少期からつい最近まで続いたほどです。
③私の近くで楽しそうに話をする人たちが怖い
主に職場での話ですが、プライベートな話をしている人たちの声が聞こえてくると落ち着かない気持ちになります。『早く終わらないかな』『私が聞こえないところで話してくれないかな』とイライラするほどでした。そんなときはいつも、耳にシャッターを下ろして仕事に集中していました。傍で聞いている人が雑談に反応し、私以外の全員が笑っているときも会話に加わらずにいました。フルシカトです。すごく感じが悪いですね。でも、会話の意味が拾えないため、頓珍漢な発言をするよりは我関せずの態度を貫いた方が笑い者にされる機会が少なく、私にとってはメリットが大きかったのです。
④無視されるのが怖い
私の存在を認識した上で、無視されるのを異常に恐れ、アイコンタクト恐怖とコラボして挨拶すらろくに出来ない状態の時もありました。
①~④の状態に陥った原因と決めつけた人(主に家族)へ『あの人がこんなことしなければ(言わなければ)こんなことにならなかったのに!』と理不尽な怒りを募らせて心身のバランスを崩し、長いこと情緒不安定でした。
◆ 上記の恐怖は、全て生存本能と直結するものだった
幼少期、家族から虐げられていたぐみちゃんは、その理由をこう考えていました。
『私はいらない子なんだ。私がいなければ全てうまくいくんだろう』
それを裏付けるように家族は事あるごとに『お前なんていなければいいのに』と言葉で目線で態度で訴えてきます。
…おかげで自分が存在すること自体が罪深いと思っていたのです。
そのため、『じっと見つめる』『笑い者にする』『仲間外れにする』『無視をする』という行為はすべて、私という人間が存在しているという罪に対する罰だと思っていました。
でも、それを認めてしまうと生きていけません。
だから、罪悪感を感じないために他人のせいにして怒りを転嫁する術を身に付けました。
そのうち、『人(私)に迷惑をかける奴は、何をされても仕方ない』という考えに代わり、自分も他人へ罰を与えるようになりました。
元々、他人に感じる制御不能な怒りとは、自分自身に怒っていることが大半だそうです。自分に怒りを向けるわけにはいかないから他人に転嫁するのです。
私のアンガーポイントは『罪悪感から目を逸らすため』ということに気付いてからは、怒りに飲まれることがなくなりました。
また、仕事以外はほぼ引きこもりなのも、人と関わることで罪悪感を感じたくないからだということに気付きました。
気付いてみれば『なーんだ』と思うことだらけですが、気付くまでが大変で、しんどかったです。
好転していく自分の今後の人生が楽しみになりました。
来年の今頃、私は何をしているんだろう。