発達障害だと思っていたら、愛着障害だった私の話

しくじり人生の中で気付いたことを共有するブログ

火垂るの墓を十年ぶりに観たら、愛着障害をひとつ乗り越えた話

お久しぶりです。

ぐみは元気です。

 

先月のPVが1000を突破したというお知らせに今更気付きビックリしています。

ありがたいことです。

私の経験が悩んでいる皆さんの糧になればいいなと思います。

 

さて、愛着障害シリーズですが、新作は非常に難航しています。

まだ当事者だからでしょうか。上手く気持ちがまとめられず、文章を書くこと自体が辛くなり、足が遠のいていました。

 

時間の経過か、バランスの良い食事を摂るようになったからか元気が出てきたので、リハビリを兼ねて日頃の想いを形にする作業を再開します。

 

◆ すぐ泣く理由が三十年越しに分かった  

私は昔からすぐ泣きます。

ほぼ自分のために。悲しかったり、悔しかったり、ムカついたときなどです。嬉し泣きの記憶はないので、本当に自己中な人間ですね。

とはいえ、生死が関わる物語に対しては決壊したダムのようにダバダバと涙が出ます。

でも何で泣いているのか今まで分かりませんでした。「彼らが可哀想」とか「けなげ」などの綺麗な気持ち由来じゃないことは確かです。

 

この文章をまとめているときに、『自分のため』だと気付きました。生きるか死ぬかの崖っぷちに立っている彼らは誰が見ても可哀想で、そんな人々に自分を投影して『私可哀想』と思いっきり自己憐憫してたんだな…。

 

きっかけは、昨日の金曜ロードショーで放送された「火垂るの墓」を見たことです。

 

◆ おかしいな?「火垂るの墓」で号泣する気満々マンだったのに、全く涙が出ない  

十年前の私は、本作品を見て大泣きしていました。

翌日は瞼が腫れて一重まぶたになるほどに。

 

清太と節子が可哀想!親戚のおばさん酷い!!嫌い!!!」と本気で怒っていました。

 

でも、十年ぶりに観たら、「おばさん、言うほど酷い人じゃなくね?」と思いました。

確かに言葉はきついですが、内容は至極まともです。

また、「長いことお世話になりました」と出て行く兄妹を見送った時の表情は「疫病神が出て行ってせいせいした!」ではなく、「大丈夫かな、あの子たち」のように見えましたし。

 

◆ 十年越しの感想に変化が…

十年ぶりに観て、目についたのは清太の幼さでした。

14歳はまだ子どもだけど、妹の節子を守れるのは君だけじゃないか。

母を亡くしたショックで心が退行していたのかなとも思うけど、幼い妹と一緒に遊び回っていてどうする。海ではしゃぐ兄妹を、海水を取りに来た親子が唖然と見つめているカットに十年前は「何も悪いことしてないのに、非難するようにじっと見るなんて酷い!」と憤っていたけど、今なら分かります。みんな生き抜くため必死なのに暢気だなーと思いますね。

 

十年前は思慮の浅い頭で観ていたからか、細部まで覚えておらず、窃盗で捕まったことを今回初めて知りました。人相が変わるほど殴られた顔を節子に見られて、「二人だけでは生きて行けない。意地を張るのはやめよう」と悟れなかったのが残念でなりません。

 

『やりたくないことはやらない』という清太の姿が、社会から孤立していた頃の自分と重なります。

当時の私は、

何も知らないんだから

若いんだから

 

大目に見てよ

優しくしてよ

と思っていました。

義務を果たさずに開き直る姿は本当に可愛げがないですね。

優しくしてもらいたいなら、人の役に立つことで自分に出来ることを模索しなさいよ、と当時の自分に言いたくなりました。まぁ、聞く耳絶対持たないですけどね。

 

こういった日々の気付きでしか愛着障害を克服する方法はなく、気の遠くなる話ですが、思いがけないところで新しい発見があるので楽しみつつ付き合っています。

【しくじり人生⑪】人並みに仕事が出来るようになったけど新たな壁にぶつかる話と愛着障害という答えに巡り合った話

 

前回のお話はコチラ

mauve-jasmin.hatenablog.com

 

◆ 二年間の怒りが大爆発!けれど伝わってないと思うよ・・・

ようやく人並みに仕事が出来るようになって三年目に突入したぐみさん。

育児休職中の社員(Aさん)が復職するという話を耳にします。このタイミングで辞めようと決めていたので、次の契約を更新しないことを派遣会社に伝えました。

派遣先は彼女と入れ替わりで辞めるつもりだとは知りません。

彼女が復職する噂が社内に流れ始めた頃、(Aさんが戻ってきたらこいつ(私のこと)の仕事はなくなる。うちに残りたいだろうこいつはどうするんだろう?)と面白がるような目線で人の顔色を窺う周囲の様子が気に入りませんでした。

また、前評判からAさんを『非常に仕事が早く、正確な人』と思い込んで、私を下げた言動を取るのも気に入りませんでした。Aさんは出来る人風に見せる技術の高いタイプでした。後輩のBさんに仕事を押し付け、残った仕事は雑にこなすから早いだけだし、また、長らく同じ仕事をして精通していることから後から異動してくる総合職に無言の圧力をかけて疑問を飲み込ませ、ミスを修正させていただけで、本当の意味で仕事の出来るタイプではありませんでした。

そんなAさんは意地悪な人で嫌がらせをたくさんされました。私は彼女のことが大嫌いでした。仕事と家庭の両立をしつつ私の仕事を丸々引き継いで(Bさんの仕事も引き継いだので、Aさんの育休前より仕事量は多かった)定時に帰るのは無理だということに気付いていながら辞めました。『仕事の出来るAさん像』なんて早々にぶっ壊れればいい、ざまぁみろと思っていました。

前触れもなく辞めることで怒りを分からせたかったのです。自分たちは選ぶ立場だと思いあがった彼らに、「お前らが大嫌い、お前たちはいらない」と切り捨てることが、あの頃の私にとって唯一の復讐だったのでしょう。送別会は「皆様の貴重なお時間を、たかが派遣社員の私のために割いて頂くのは申し訳ないので」と拒否し、手紙つきのプレゼントは家に帰ってから開封することなく速やかに捨て、色紙はメッセージを読まずに元彼の会社にあるシュレッダーにかけてもらうよう頼みました。

 

当時の気持ちを振りかえると『闇が深いなぁ』の一言に尽きます。

そんなに『大切にされたい』んだったら、それなりの振る舞いというものがあります。受け答えがキチンとしていて、礼儀正しく常識のある人をバカにする人は中々いませんからね。残念ながら、あの頃の私には欠けていたものばかりです。そもそも、実務能力を身に付けることを優先して社交能力を伸ばすことを切り捨てたんだから自業自得とも言えます。選択が極端なのも愛着障害を持つ人の特徴らしいですが、客観的に見ると哀れですね。

 

そんなわけで疲れ果てた私は一ヶ月ほど休み、再び同じ派遣会社を使って別の会社に潜り込みます。「正社員になりたい!」という気持ちはあるものの、人間関係が原因でクビになったり、針のむしろになったりと人付き合いに自信がなかったので心の痛みを避けた結果でした。けれど、当時は本当の気持ちが分からず、『仕事が出来ない、と言われ続けた自分は本当にそうなのか、力を試してみよう』と気軽に考えていました。

 

◆ コンプレックスが止まらない

前職での経験を買われ、新しい職場も人事部でした。

ここで不思議なことが起こります。周囲の社員たちが皆にこやかに接してくれるのです。今思えば不思議でも何でもないんですが、当時の私は『何で放っておいてくれないの?』と鬱陶しく、不気味に思っていました。そりゃあ、ちゃんとしていそうな身なりの整った新人がいたら皆興味持つし、優しくしてくれるよね。虐げられるのが当たり前だった私の世界は一変し、適応出来ずに非常に混乱しました。その戸惑いは言動に表れ、次第に軽んじられるようになり、笑顔を向けられなくなってから初めて元の世界に戻ってこられたと安堵しました。その代わり、彼らから無言でじろじろ見られるようになります。違和感のあるものって目で追ってしまいますからね。日の当たる道を歩いてきた彼らにとって、私のようなおどおどした謎生物に会うのは初めてのことだったかもしれません。

この職場で悩まされたのは、大卒で新卒入社した人たちへのコンプレックスでした。毎年新卒採用を行っているその会社には、私と同い年の男女がゴロゴロいました。彼らはたいてい主任以上の役職につき、裁量のある仕事に見合った高い給料とボーナスをもらって、長期休暇のたびに国内外へ旅行に行き、流行の服を身に付けて自信に満ち溢れていました。一方、私は大学を中退しフリーターとなり、社交能力もなく仕事も出来ず職を転々とし、同年代と比べるとスキルがありません。しかし、同棲のおかげで家賃や水道光熱費を払わずに済んだのでお金が浮き、それなりのものを身に付けているため外見だけは彼らと同じように見えます。彼らに「年が近いから仲良くしましょう」と近づいてこられても、劣等感から顔は強張り、足は一歩後ろに下がります。こういった否定的な態度を取られればたいていの人はムッとします。彼らとあっという間に疎遠になり心の底から安堵しました。

落ち着いた頃、その年に入社した新入社員が研修を経て人事部に配属されました。彼女と一番歳が近いのは私でした。なお、人に聞くか、組織図でも見ない限りは私が派遣社員であることは分かりません。早速『頼りになりそうな先輩』と彼女に認識されて懐かれた私はどう接したらいいか分からず、とても困惑しました。

なぜならば、前職で新卒採用のアシスタントをしていた頃、最終面接に挑む学生たちの聡明さに内心で舌を巻いていたからです。どうして、面接官である役員相手に物怖じせず自分の意見を論理的に伝えることが出来て、それが受け入れられて内定をもらえるんだろう。自分にそれが出来るか、と問われたら絶対に出来ない、と敗北を認めていたからです。

例外でなく彼女も聡明で、人当たりが良かった。真面目で丁寧な仕事ぶりと真摯な受け答えから先輩たちに可愛がられていました。何よりも周囲の人たちは自分に優しくしてくれると信じているところが眩しくて直視できなかった。彼女はとてもいい子だったから嫌いではなかったし、僻んで意地悪をするほど私も幼くありません。でもコンプレックスが彼女を見る目に出ていたんでしょうね、目ざとい人たちに『あの子がいじめられちゃう!』と決めつけられて敵視されました。

また、当たり前のことですが彼女と自分に対する会社の期待度の違いにも劣等感を感じていました。配属当初、彼女は私が教えた仕事をしていました。数ヶ月も経たないうちに新しい仕事をどんどん任されるようになり、教えた仕事は手元に戻ってきました。私はずっと同じ仕事をしています。社員は会社の財産です。色々な仕事を経験して会社に貢献してもらいたい、と考えるのは当然のことで、派遣には社員の手間を省くためのルーティンをして欲しいと考えるのも当然のことです。『私もあちら側(社員)に行きたい』と思いながらも、人付き合いに自信がなくて二の足を踏んでいました。社員たちは私の目から見て、違う生き物のように映っていたからです。ずっと同じ組織の中で良好な人間関係を維持できることが不思議で仕方ありませんでした。具体的な例を挙げれば、どこの会社も社内結婚は結構あって、挙式に社長や上司、同僚後輩、取引先を呼ぶのは珍しくありません。参加者の顔ぶれや余興など、自分たちの社内での評価が式にモロに反映されるわけで、私には絶対に出来ないと恐れおののいていました。

 

愛着障害という概念との出会い

そんなわけで、『私は皆と何かが絶対に違う。でも何が違うんだろう』と悩み出した頃、人事部内で回覧される、障害者雇用に対する啓発活動の一環として発行された機関誌のある特集に目が止まります。

それは発達障害を持った人たちを支援するため奮闘する人々の記事で、気になる文章がたくさん載っていました。

うろ覚えですが抜粋します。

彼らはあっさり仕事を辞めてしまうことが多いので、びっくりする

社会に適応出来ず、引きこもりになる人は結構多い。そのあいだ、動画サイトや掲示板を見て過ごす人がほとんど

えっ、それ私のことじゃん。心血注いでいるように見えた仕事もあっさり辞めるし、再就職に自信がなくて引きこもっていた時、一日中ニコニコ動画ピクシブを見ていたよ。でも、数年前の検査で発達障害ではないと診断されているんだけどなー

 

発達障害愛着障害はよく似ており、専門家でも当事者の話を良く聞かないと判断がつかないことが多い』

 

愛着障害

初めて聞く言葉ながらも、妙に気になる言葉です。

家に帰ってから早速ネットで検索しました。

自分の窮状を説明するのにこれほどぴったり沿う概念はないと感じました。

 

愛着障害とは、

かいつまんで説明をすると、

子どもは養育者と親密な関係を維持しなければならず、それが出来なかった場合はその後の対人関係に応用される

という状態を指します。

詳しい理論は、下記をご参照ください。

愛着理論 - Wikipedia

 

早速アマゾンで関連図書をいくつか取り寄せました。

その中で、ためになった本を二冊紹介します。

 

愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)

愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)

 

(この本の特徴は、愛着障害の仕組みを分かりやすく解説してくれることと、愛着障害に苦しんだ著名人のエピソードがたくさん載っていることです。夏目漱石太宰治など文豪のほとんどは愛着障害を持ち、その苦しみが創作の源泉だった、と知って悲しくなりました。また、世界をひとつ上のステージに導く人は、安全基地を持たず、既成の概念に囚われない愛着障害を持った人に多いそうです。発達障害と言われることの多いジョブスは、この本では愛着障害だと言われています。

なお、愛着障害には四つのタイプがあり(安心、不安-両面感情、不安-回避、混乱)、チェックシートで自分の傾向を知ることが出来ます。ちなみに私は混乱型でした。一番治療が難しいそうです。がっくり)

 

子どもを生きればおとなになれる―「インナーアダルト」の育て方

子どもを生きればおとなになれる―「インナーアダルト」の育て方

  • 作者: クラウディアブラック,水澤都加佐,武田裕子
  • 出版社/メーカー: アスク・ヒューマン・ケア
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(この本は自力で愛着障害を治療するワークブック、という特徴を持っています。自分の傾向が分かったら治療の足掛かりとして本書をオススメします。しかし載っている内容をひとりでするのはかなり難しく感じた(思い込みを思い込みだ、と気付くことが治療の本質のため)ので、プロの手を借りる前に自分の内面を整理したり、ある程度トンネルの出口が見えてからの総仕上げに使ったりなど、補助的な使い方が向いているかもしれません)

 

 

早速関連書籍を取り寄せたのはいいけど、これらと向き合うには時間と気力が必要だと思いました。

また、正社員として就職できる年齢のタイムリミットが近づいています。『私もそっち側(社員)に行きたい』という自分の望みを叶えるため、派遣の契約を更新せず、有給を全部消化して愛着障害の治療と就職活動に費やすことにしました。

意外なことに派遣先からは直接雇用の話を頂きました。

しかし、私は断りました。『この会社が提供するサービスを私は欲していない』『全国転勤するのは嫌だ』というもっともな理由を自分に言い聞かせましたが、本当のところは『良好な人間関係を継続する自信がない』というのが本心でした。

 

たった二週間ほどで長年の愛着障害が根治することは当然なく、現在も続く長いトンネルに入ります。

【しくじり人生⑩】人並みに仕事が出来るようになりたくて奮闘する話とトラウマが大暴走した話

今回は、仕事が出来るようになることを優先して社交能力の改善を無視した結果、自覚のないトラウマに支配されて大暴れしたお話です。

 

前回はコチラ↓

mauve-jasmin.hatenablog.com

◆ 年齢相応のスキルが欲しい…!

失敗だらけの職業人生の中で「自分のペースでやっていい仕事はない。限られた時間の中でベストを尽くすことが大事」という気付きを得たぐみさんは二十代も後半になっていました。短期離職を繰り返したおかげで、年齢に見合ったスキルがないことがコンプレックスでした。二十代後半はスキルを身に付けるための就職ができる最後のチャンスのように思えます。かといって正社員の求人に応募する気にはなれません。面接で深い質問(あなたはどうしてこの人生を選んだのですか?)をされて言葉に詰まるのが怖かったからです。そんな消極的な理由から受け身でいられる派遣会社へ数年ぶりに足を運び、理想的な仕事を紹介してもらえました。

それは、とある大企業の子会社の人事アシスタント業務です。

顔合わせ時に、ベテラン社員が育児休職に入ることによる代替要員の募集と聞き、「正社員と同じ仕事を任せてもらえるかもしれない」と期待で胸を膨らませました。私の経歴と第一印象が派遣元のお眼鏡にかなったようで、ありがたいことに採用が決まり、翌週から働くことになりました。

時給は派遣人生の中で一番安かったけど、一番の激務でした。仕事内容は、採用(新卒、中途)・異動・研修・労務管理・福利厚生に関わる事務処理と多岐に渡り、マイペースにやっていたら破たんしてしまいます。職業訓練校で講師陣が「早く、正確に」と口を酸っぱくして言っていた意味を身を持って知りました。とはいえ、やり方も考え方も分からなかったので自己啓発本を読み漁って自分本位な思考の矯正をし、人並みに仕事が出来るようになりました(お世話になった良書たちは別記事でご紹介します)。

 

一方で人間関係は最悪でした。幼少期に家族に軽んじられた経験と、これまでの失敗から自己評価が極端に低く、話しかけられると(放っておいて欲しい)という気持ちから焦って頓珍漢なことを口走ってしまい、失笑されることが常でした。

その上、部長が平気でモラハラパワハラをする人で、部内の雰囲気はギスギスしていました。目の前で悪口言われるし、ミスすると舌打ちされるし、無知ゆえの奇行を「ヤバイよね~」と笑い者にされたり、「正社員である自分たちは選ばれた存在だから難しい仕事をして、派遣は誰でも出来るような簡単な仕事をやらせればいい」といった心無い差別を受けたり、嫌なことが毎日ありました。

言葉の意味を拾わないよう、耳にシャッターを下ろす癖はここで更に強化されました。おかげで、今でも少しの毒を含んだ楽しそうな話し声を拾うと防衛機能が働くようで内容を理解することができません。雑談に入れないのはけっこう困ります。

私の前に何人か採用した派遣社員たちは皆、長続きしなかったと聞きます。私も目的がなかったら「こんなに性格の悪い人たちと一緒に働きたくありません」とさっくり辞めていたよ。

この仕事にしがみついた理由は、「仕事が出来るようになりたかった」からです。そういった意味では理想的でした。私のことを愚かな派遣と蔑みながらも、人手不足な上に時間が足りないから正社員がやる仕事を丸投げせざるを得ない。おかげさまでたくさんのことを吸収させて頂きました。劣悪な環境に二年も身を置いた代償として、歪みが酷くなりましたけどね…。

 

◆ 何年も解決出来ない壁にぶつかった話

在籍した二年間のうち、つい最近まで未消化だった出来事がありました。

 

それは、新しいもの好きでチャレンジ精神が旺盛な役員による鶴の一声で決まったことが発端でした。

事務作業を誰でも出来るようにしよう」という試みです。

この考え自体は良いことです。属人化した仕事は無駄が多く、不正を隠しやすいですからね。

しかし、その第一歩が私にとって大問題でした。

さすがに全ての事務作業を全員でシェアするのは無理があります。そこで段階を踏まえて役員の希望を叶えることにした課長二人は、私の仕事の一部に目をつけました。理由は、「派遣がやっている仕事だから簡単だろう」という非常に差別的な発想によるものです。

ところが、根回しの下手くそな課長二人は、私のような非正規社員だけでなく部下たちへの説明すら怠りました。バカの一つ覚えのように突然、役員の提唱するキーワードを繰り返すようになり周囲を混乱させます。途切れ途切れに聞こえてくる会話から、自分の仕事がその試みの第一歩となることを知りました。私は何の説明も受けていません。そのプロジェクトを成功に導きたいなら、ビジョンを社内で共有することと当事者の協力を得ることが必要不可欠なはずです。その仕事に誰よりも精通しているのは私でした。当事者なのになぜ蚊帳の外にして何も分かっていない者だけで話を進めるのか。私は激怒し、課長に噛みつきました。差別対象である派遣社員に初めて牙を剥かれた課長も激怒し、互いを否定するだけの非常に醜い争いが起きました。周囲は私がどうしてそこまで怒るのか理解出来なかったようです。私は(自分の仕事を訳の分からないうちに取り上げられて怒らない人なんていないでしょ)と怒りを正当なものだと思っていました。また、課長がどうしてそこまでムキになるのかも分かりませんでした。その子どもっぽい姿は幼少期の私と張り合おうとする父を思い出し、課長への嫌悪感をますます強めることになりました。

とはいえ、異動や配置転換で仕事を取り上げられるのはサラリーマンにはよくあることです。私は何がそんなに気に入らなかったのでしょうか。実際に課長から「何が気に入らないの?」と散々聞かれましたが、私は何も言いませんでした。「私を尊重して欲しい」なんてカッコ悪くて言えなかったからです。「俺に感謝しろ、俺を大切にしろ」は父の口癖でした。それを聞くたびに「バカじゃねーの。自分を大切にして欲しかったら、まずは周りの人間を大切にしろよ」と軽蔑していました。時を超え、自分も同じことを周囲に求めている。そして私も周囲を大切にしていないし、そもそも大切にしようという気持ちすらなかったことに気が付いていたからです。天に唾を吐くようなものですね。

当時考えていたことは「もし、私が正社員であなたたちの仲間だったら、蚊帳の外にはならなかったのではないか」「そもそも私が正社員だったら、誰にでも出来る仕事として白羽の矢が立たなかったのではないか」というものでした。今思えば思考が相当ねじれていますね。なぜならば正社員にも尊重されない人はいますし、派遣社員にも尊重される人はいますから。この頃の私は(どうせこの会社の人とは二年ほどの付き合いだから仕事を覚えることに専念しよう)と社交能力の低さを改善しようとしなかったため言動がおかしく、ちょっと見下されていたことも課長との泥沼抗争に至った理由のひとつだと思います。

さて、私の言う『尊重』の定義とは何でしょうか。

幼少期の話に遡ります。父は、私を尊重しない人でした。具体的には『嫌だと言っても止めてくれない』のです。私の名前を姉と呼び間違えたり(逆はないし、今もそう。おかげで私は自分の名前があまり好きではありません。人に話すと驚かれます)、子どもの私に喧嘩腰の態度を取ること、私を馬鹿にした言動をする、私を無視するといった通常の大人には考えられない頭のおかしさです。止めて欲しいと訴えても『傷つけてやった!」と言わんばかりにニヤニヤ笑うだけ。困惑したぐみちゃんは自分を守るために『嫌な出来事はなかったことにする、忘却する』という選択をします。抗議したところで改善はないし、父を喜ばせるだけだからです。おかげで『君は怒るべきところで怒らないし、怒らなくていいところで怒るから地雷が分からない』と元彼に評される、悲しいモンスターが生まれました。

三年前、元彼との同棲によるストレス(寂しいと言う気持ちを押し殺していたため)が体の不調としてあらわれ、同棲解消を両親に相談したところ、『何もしてやれないから』という理由で同棲の継続はおろか、結婚と出産を強いられ、何もかも嫌になって同棲を解消して逃げ出した私は、『どんなに嫌だと言っても誰も聞いてくれない』とすっかり思い込んでしまいます。実際は、これほど嫌がっている人に強行するような鬼畜は自分の親以外いませんでしたけどね。泥沼になった課長ですら、私に歩み寄ろうと「何が気に入らないのか」を繰り返し尋ねてくれたし、ほぼ私のために社内説明会を開いてくれました(『無理矢理自分たちの言うことを聞かせようとしている!』という嫌悪感でいっぱいだったのでズル休みしてすみませんでした)。

 

これは先日、現在の就業先で似た出来事が起こった際に気付いたことです。たくさんの人に迷惑をかけたのは申し訳ないですが、五年越しの課題がスッキリして安堵しています。

 

ぐみはもう大丈夫です。

あの時は本当にすみませんでした。

【しくじり人生⑨】自分に問題があると認められず、迷走する話

今回は、自分と向き合うことを無意識に避け、明後日の方向へ走り出すお話です。

 

前回の記事↓

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◆ 養われたくない…!

正社員の仕事を半年でクビになったぐみさん。すっかり自信を失くしてしまいました。元彼は「そんなに辛いなら仕事辞めて俺の扶養に入ってもいいよ」と言ってくれましたが、どうしても嫌でした。なぜならば、自分の人生を自分で選べない母のような人間になりたくなかったからです。現在、彼女は自分の人生にそこそこ満足していると思いますが、姉がUターン就職するまでは自分の夫(つまりは私の父)に対する憎悪がすごかった。子どもの頃から愚痴をたっぷり聞かされました。

確かに父は自分本位で思いやりに欠ける言動が多々あり、「稼いでいる俺が一番偉い。だから自分は大切にされなければならない」という考えを家族に押し付ける割に、自分は家族を大切にしない人でした。正確に言えば、母と私を大切にしなかった。自分の親や私の姉のことは好きでしたけどね。愛情にムラがあり、それを表に出してしまうタイプと言えるでしょう。

そんなわけで、夫婦関係は対等ではありませんでした。父が「大黒柱だから」という理由で我を通し、母がむっとした顔で従うのが常でした。母もそれなりに我が強いので、反発心からぶつかり合いは頻繁に起こりますが、問題の根っこが見えていないため話が噛み合わず、子どもの私が見ても「なんか変」と思うくらいおかしな夫婦でした。

「金さえあれば離婚するのに」

「浮気してくれれば、慰謝料をたっぷりもらった上で相手の女に熨斗つけてあげるのに」

と母はよく言っていました。

そりゃあ自分を大切にしてくれない人と一緒にいたくないですよね。分かります。

けれど、彼女には二の足を踏む理由がありました。

それは『経済的に自立する自信がない』ということです。

母は私たちが小さいうちは家庭に入り、高校生になってからは扶養の範囲内で仕事をしてきました。父は「男は仕事、女は家事」という考えが強く、母は家庭を守るためにこの道を選びました。

「稼いでいる俺が一番偉い」という父の考え方は間違っていると思います。母がしっかり家庭を守ってくれているからこそ父は仕事に専念出来るし、自分の子を二人も産んで育ててくれた女性をないがしろにしていいはずがありません。夫婦に上下はないはずです。母はちょっとズレたところがあるので、見下していたことも父が母を軽んじる一因だった気がします。

母は、嫌いな夫と一緒にいたくないけど、生活のために夫から離れられないというジレンマを抱えていました。

そもそも母が父を嫌いな理由は『寂しいから』だと思います。愛情と憎悪は紙一重って本当ですね。私が元彼と八年に渡る同棲を解消したのも寂しかったからです。おバカな私を愛しつつも内心見下していることが我慢ならなかった。『この女は俺がいないと生きて行けない』という思い込みをぶち壊したかった。でも、今は夫となる人には『この女は俺がいないと生きて行けないから守ってあげなくては』と思って欲しい。何でも出来るけど何も出来ないフリをしたいですね。

 

かつて両親の姿から学んでしまった『女性は仕事を手放すと夫に見下されてしまい、対等な関係を築けなくなる』という思い込みは、私を元彼の扶養に入って新しい家族を作る、という選択肢を避ける方向に進ませます。フルタイムで働きたがる理由を「私には社会性がないから、それを育てるには仕事をするのが一番」と説明しましたが、元彼は「俺の親族と付き合うことや扶養の範囲内でパートをすることでも社会性を育てるのは充分可能なはずだ。君はいったい何と戦っているの?」と疑問を呈しながらも私の意思を尊重してくれました。ごめんね、私は自覚のない思い込みに縛られており、あなたを信用しきれませんでした。世界の姿が歪んで見えていた私にはあなたと手を取り合ってうまくやっていく方法を探す発想がなく、「大切にされたい」という気持ちだけ握りしめてあなたを逆恨みしていました。

 

◆ 大人の発達障害だと思って検査したら違った

ベンチャー企業で辛酸を舐めていた頃、(私はなぜ仕事が出来ないのだろう?)と悩んでいました。ところが考えようとすると思考停止状態に陥り、上手く行きません。そこで家のパソコンで『仕事』『できない』で検索すると、『大人の発達障害』という症状を見つけます。自分の状況とガッチリ一致するように思えました。みんなと違う理由が分かったような気がして、すごくほっとしたのを覚えています。

関連サイトで『現状を受け入れて、上手につきあっていくのが大事。それにはプロの手を借りるのが一番』という趣旨の文を見つけ、専門機関を探して検査を受けることにしました。けれど無職でお金がないため、まずは無料で検査を受けられるところがないか探してみたところ、東京都が運営する公的機関で受けられる仕事適性検査が発達障害の検査と近い、という情報を見つけたので早速予約をして行ってきました。

検査結果は、素人目には発達障害の傾向が強く出ているように見えます。また、「あなたは芸術家や職人といった仕事が向いている」と分析した職業アドバイザーから有益な情報を手にしました。技術系の職業訓練校の存在です。受講を視野に入れつつ、(次は発達障害を診てくれるお医者さんを探さないとな)と考えました。

ところが大人の発達障害を診てくれるところは少なく、予約しても半年先というのはザラでした。子どもと女性専門のお医者さんを見つけ、運よく一ヶ月以内に診てもらうことが出来ました。

待望の検査結果は、『ぐみさんは発達障害ではありません』でした。

お医者さんは『認知に問題があるようだ』と仰います。例えば、検査のひとつに「津波という言葉の意味を教えてください」という質問があり、「大きな波です」と答えました。正直に告白すると、その検査は頭をとても使うためすごく疲れていたので適当な答えを発しました。その不誠実さを先生は見抜き、『性格の問題です』と仰ったのだと思います。

とてもガッカリしました。人と違う理由が別のところにあるとハッキリしてしまったからです。セカンドオピニオンも考えましたが、どこに行っても同じような気がしたので辞めました。

 

就労できない事情がないなら、再び仕事をしなくてはいけません。しかし、次の職場も人間関係が上手く行かずに退職するような気がして仕事を探す気力が湧きませんでした。ところが私は就労意欲だけはあります。そこでまた斜め上の発想が飛び出ました。

「私に合った仕事、天職を探そう!」

長所に目を向け、いいところを最大限に伸ばすという意味の『天職』だと思いますが、私は自分に都合の良いように曲解していました。人として問題のある欠点を改善しようとせず、仕事を自分に合わせることばかり考えていました。どんな仕事かというと、『人と関わらない』『自分のペースで出来る』『自分にしか出来ない、替えがきかない』職です。

妙に運のいい私は、発達障害を持っている人に向いている仕事とされる技術系の職が、職業訓練校で安く学べることに気付いたのです。

「これは運命だ」と思い、体に稲妻が走ったような気すらしました。

早速応募し、合格をもぎとりました。二回目の職業訓練校にも関わらず、倍率三倍という激しい競争の中で生き残れたのは第一印象が良かったからだと思っています。

 

◆ 自分のペースで出来る仕事なんてないと悟った一年

職業訓練校に通う一年ものあいだ、雇用保険の給付金をもらいつつ技術の取得に励みました(生涯で支払う雇用保険料より多額の給付金を頂いているので、雇用保険制度には頭が上がりません。現在、全く関係のない仕事に就いていることを申し訳なく思っています。将来的に多額の雇用保険料を納付できるよう頑張る所存ですので許してください)。

中身は自分本位なままなので、ここでも人間関係のトラブルを起こします。言動を面白おかしくいじられて笑われたり、私だけ飲み会に呼ばれなかったり、一部の先生に嫌われて放置されたりと色々と辛いことがあった日々の中に、自分の言動を振り返るきっかけとなる金言がありました。朝礼で担任の先生が仰ったことです。

「教わるのが上手くない人が目につきます。自分の都合を押し通そうとせず、先生たちのことをよく見て、質問をするタイミングや内容などをよく考えてください」

目からウロコが落ちました。そんな発想、私にはなかった。思えば『私が知りたいから』という一心で配慮のない質問の仕方をしていました。伝わるよう言葉を選ぶこともなく、『先生なら何でも知ってるでしょ。私が分からないことを早く教えてよ』と傲慢な考え方をしていました。例えるなら、先生のことをボタンを押すと答えが出てくる機械とみなし、しょっちゅう自分のタイミングで押しに行くようなものです(数年後、同じことをされた時に痛感しました)。

また、技術系は時間厳守、費用削減が必須です。先生たちの口癖は『早く、正確に』でした。私は生意気にも『初めてやることなんだから時間がかかるのは仕方ないでしょ、大目に見てよ』と開き直って自分のペースを死守していました。そうすると、限られた時間内で課題をこなすことが出来ません。挽回できないほど周囲と差がついたころ、ようやく悟りました。

「この世に自分のペースでやっていい仕事はなく、限られた時間の中でベストを尽くそうと頑張ることが真理なんだ。仕事を自分に合わせるのではなく、自分を仕事に合わせていこうとする気持ちが大事なんだ」

 

気付いた頃には時すでに遅く、この道で食べていける程の技術と自信がないまま卒業式を迎え、一ヶ月ほどの抜け殻期間を経て派遣会社へ数年ぶりに顔を出しました。職業訓練校生時代に誰よりも抜きんでていたのはOAスキルしかなかったので、事務職に戻るのが最適だと思ったからです。

派遣会社のスタッフは出戻った私を温かく迎え入れ、早速新しい仕事を紹介してくれました。それは、簿記の資格とベンチャー企業での一人事務の経験を生かせそうな人事アシスタント業務でした(追われるように辞めたこと、首になったことはもちろん言ってません)。

 

続きます。

【しくじり人生⑧】仕事が出来なさすぎて、正社員を半年でクビになった話

今日も仕事をお休みしてしまいました。

本当に具合が悪いのか、怠惰なのか自分でも分からん。

どっちにしろ、来週から本気出します。月曜行けなかったら本気でヤバい。

 

さて、前回は問題が表面化してきた話でした。

 

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今回は問題に気付きながらも、どうすればいいか分からずに深手を負いまくる話です。

 

◆ ラッキー!正社員になれたよ!!

あまりに仕事が出来なさすぎて職場を逃げるようにして辞めたぐみさん。数ヶ月の引きこもり期間を経て、再び就労意欲が湧いてきました。思考停止状態というハンデを背負いながらも導き出した、前回上手く行かなかった理由と対策は『私の頭は悪くない。やり方さえきちんと覚えれば大丈夫。でも、派遣だったから時間の制限(定時で帰れという無言の圧力は多少ある)があって自分のペースで仕事が出来なかった。私は覚えるのに時間がかかるタイプだから、思いっきり時間を使って納得するまで仕事ができるような環境で働けばいいのでは。そうだ、正社員になろう』という斜め上の発想でした。

ふざけんな。自分のペースでやっていい仕事なんてこの世には存在しないし、どんな仕事にも締切が存在する。それを無視して自分が納得するまでやりたいとか頭湧いてんじゃねぇの?本当にてめぇは自分のことしか考えてねーな、と当時の自分の横っつらをひっぱたきたくなります。でもこれって人によっては理解できない概念なんですよね。正社員でもこういう考えの人って割といます。そういう人たちはおしなべて窓際族ですけどね。「頑張っているのに評価されない」とむくれていますが、アプローチの方向が間違っているんだぜ。自分で気付くしかないので何も言いませんけど。

 

そんなわけでハローワークに出向き、ベンチャー企業のバックオフィス業務(要するに総務や経理、人事など事務全般)の求人票を見つけ、さっそく応募書類を郵送しました。

二十代半ばという若さと簿記の資格を持っていたからでしょう。すぐ面接に呼ばれました。そこは従業員数10名以下の小さな会社で、面接官は社長と会社の顧問弁護士でした。自分の語るペラッペラの志望動機に『やっぱり私はどこかおかしい。大抵の人は学生でやることなのに。なぜ私はみんなが出来ることが出来ないんだろう』と寒気を覚えながらも面接自体はそこそこ盛り上がって終わりました。なぜならば、書類上は向上心に溢れガッツのある私をふたりとも気に入ったらしく、いっぱい喋ってくれてバカが露呈しなかったからです。

恐ろしいことにトントン拍子に話が進み、正社員で働くことが決まりました。

元彼は喜ぶと同時に、いきなりのステップアップに『大丈夫?』と心配してくれました。その気持ちが今なら分かります。ドラクエで例えて言うなら、ひのきのぼうを装備したままエリアボスに挑むようなものです。無謀すぎます。

 

◆ 学習しないせいで、再び孤立…

前回同様、最初の二ヵ月は「真面目な頑張り屋さんで、良い人が来たね」と皆喜び優しくしてくれました。前回の失敗があるにも関わらず、私も愚直にそう信じていました。

しかし、二ヶ月目に差し掛かる頃には馬脚を現し、じわじわと嫌われるようになります。前回と違うのは、同い年の営業の女の子がいて事あるごとに比べられたことと、外資系企業のトップ営業だった社長が独立して作った会社は、男性社会での振る舞いが求められるという厳しい環境だったことです。

会社の仕組みは実は軍隊と同じで、そこでは兵士として振る舞わなければいけないということを今は知っていますが、のほほんとマイペースに生きてきた私にそんな発想はありません。とりわけ力関係が上の人は無条件で常に敬わないといけない、という概念がまったくなかったので、社長にたくさん恥をかかせました。

また、外資系出身で無駄を嫌う社長は、迅速・的確を好みます。事務作業の簡略化を図り、誰でも出来るようにした上で、余った時間をお金を生み出す作業にあてたいと考え、それを私に伝わるよう言葉を噛み砕き、何度も説明してくれました。

けれど、私の心には全く響きませんでした。なぜならば、『深く考えることが苦手』という事実から目を逸らすために『私は頭がいいから大丈夫。時間がかかってもいいから、自分が納得行くまでとことんやりたい』という気持ちを握りしめていたからです。とはいえ、何も考えていないため『納得行くまでとことん』にはほど遠く、仕事にムラがあり、同じ間違いを繰り返すこともしょっちゅうでした。

最初、社長は根気強くミスだけを指摘してくれました。私も「社長に迷惑をかけてしまった!」という気持ちから真摯に謝ります。けれど振り返りをしないから進歩がありません。今思えば、社長は私の使い道を模索してくれました。配置転換をしたり、同い年の営業の女の子(Mさん)の下につき、彼女の指示で動くようにしたり。また、私の欠点を冷静に指摘してくれ、改善のヒントも一度だけくれました。

しかし、私の心には全く響きませんでした。それどころか、無駄にプライドだけ高い私はMさんと上下関係を作られて内心ムカついていました。自分は彼女と対等な立場だと思っていたからです。今思えば彼女は人として当たり前の振る舞いをしていた(好かれるため多少の打算があったのは知っていますが、それもテクニックです)だけですが、周り(全員男性)がみな彼女を可愛がるのは本当に気に入りませんでした。『私という引き立て役がいて、チヤホヤされて気分いいだろうなー』とめちゃくちゃ僻んでいました。

ピリピリする無反省の私は可愛げが全くありません。大抵の人は異性に優しいものですが無視されるようになり、最終的には目の前で悪口を言われ、言動を笑われるようになりました。内容については、防衛本能が働き耳にシャッターが下りて何も聞こえていないため覚えていません。

たまに声が掛かるときはありますが、それは決まって侮蔑を含むからかいや答えられないと分かっている意地の悪い問いかけで、あたふたする私の反応を見てみんな笑います。穏やかで優しい人も例外ではなく、人は自分に迷惑をかける人をとことん嫌い排除しようとするのだということを思い知りました。

実は今でも、周囲で楽しそうに誰かが会話していると自分の悪口を言われているような錯覚を起こし、全く内容が耳に入って来ません。しかし距離的に会話に入らないのはおかしいので薄笑いを浮かべながら傾聴しているふりをしていると意見を聞かれ、とんちんかんな受け答えをして場の雰囲気をおかしくする時があります。頼むから私に話しかけないでくれと思いますが、社会人になったら『ただそこにいるだけ』は許されません。うーん辛い。

 

◆ クビになりました。ご愁傷様です。ちーん

私がツンケンした態度を取るからMさんも私に指示を出さなくなり(そもそもそんなに量がない)、放置されるようになりました。職場の雰囲気は私のせいで冷え切っています。状態がここまで悪化したら、もう辞めるしか道はありません。しかし、入社してまだ半年しか経っていないのに辞めることは抵抗があり、そこそこもらえるお給料にも未練があります。

お得意の思考停止状態に陥り、あろうことかニコ動と発言小町を始業から終業までずっと眺めているようになりました。

とうとう、社長から「うちであなたにやってもらう仕事はない。辞めて欲しい」と解雇されます。法律違反であることは知っていましたが、抗う気力はありませんでした。自業自得による必然だと分かっていたからです。

優しい社長は、離職票に記載する退職理由を会社都合と自己都合のどちらを選んでもよいこと、辞めることを周知するかどうかを決めていいと私にゆだねてくれました。そこで退職理由は会社都合で、退職は当日まで伏せて頂くことを選択しました。

 

解雇通知をされたカフェを出てひとりであてもなく寒空の下を歩きました。心の中は空っぽで、びっくりするほど他人事でした。「やっぱりな」という気持ちが強く、感情が何も湧いてきません。

事務所に戻ると空気がちょっとおかしい。全員そわそわしており、(あ、みんな私がクビになったこと知ってるんだ)と気付きました。内緒にして欲しい、という希望が却下されたわけですが、特に何も感じませんでした。むしろ辞めるまであからさまな攻撃を受けなかったので気が楽でした。

そんな中でも忘れられない出来事があります。

それは、退職を間近に控えた昼下がりの事務所内でのことでした。

一番優しく穏やかな男性が、現在開発中の製品を見せてくれたのです。それは社外秘で、辞めることが決まっている部外者の私に見せてはいけないものです。誇らしそうに嬉しそうに説明する彼の姿は私の心に刺さりました。彼が打ち合わせに出掛け、ひとりになった途端に涙が出ました。彼が羨ましかったのです。私は自分の仕事に誇りを持ったことがあっただろうか。私たちは多分全然違う世界にいて、私が彼の住む世界に行く方法はあるのだろうか。そんなことを考えていたら涙が止まらなくなりました。さめざめと泣いていたら、Mさんと別の男性が出先から帰ってきました。頬に残る涙のあとに思うところがあったのでしょう。その後「辞めたあとどうするの?」と何度か聞かれました。疲れ切った私は何も考えたくなかったので放っておいて欲しいと思いながら「しばらくゆっくりしようかな」と答えました。今思えば、「辞めたくない」という言葉を聞きたくて質問を投げかけていたような気がします。けれどそんな気持ちは不思議なくらい微塵もなかった。

 

社長へ。あの頃は本当にすみませんでした。何度もチャンスをくれたのに気付かず全てのフラグをへし折りました。「外資系で働いていた頃の部下はみんな完成されていて、あなたのような人はいなかった。どう育てていいか分からなかった」と仰っていたのを思い出します。私の未熟さのせいで後味の悪いことになってしまい申し訳なく思っています。ぐみは更生して何とか今を生きています。

 

4000字をオーバーしたので一旦区切ります。次は自分と向き合おうとして深淵にびっくりして逃げる話と人生二度目の職業訓練校の話をしようと思います。

【しくじり人生⑦】 仕事が出来なさすぎて孤立してしまい、職場を追われるように辞めた話

今回は、問題が表面化してきた時期のお話です。

 

前回の記事はコチラ↓

 

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◆ 仕事についていけない…

職業訓練校に通って取得した簿記の資格を生かし、未経験可の経理事務を派遣会社から紹介してもらったぐみさん。

更なるステップアップが出来る、と期待に胸を膨らませて働き始めましたが、大きな大きな壁にぶつかります。

 

覚えることが多すぎて、これまでのやり方では対処できない。

 

ということでした。

今までやって来た仕事といえば、データ入力・書類のチェック・不備の指摘と修正の依頼、といった奥行きがなく単調で、段取りや先の事を考える必要がないものばかりです。自己完結型ですね。

 

ところが、経理事務はこれまでやってきた仕事とはかなり毛色が違いました。

必須となるスキルのランクが上がり、その量も増えたのです。

一言でいうと、職場での良好な対人関係を維持するための能力です。

経済産業省が提唱する「社会人基礎力」が分かりやすいです。

かいつまんで説明をすると、

 

1.前に踏み出す力

2.考え抜く力

3.チームで働く力

 

の3つの能力と、それらを支える12の要素から構成されています。

詳しくはコチラ↓をご覧ください。

www.meti.go.jp

残念ながら、当時の私には全てが欠けていました。

主体性、働きかけ力、実行力、課題発見力、計画力、創造力、発信力、傾聴力柔軟性情況把握力、規律性、ストレスコントロール力、ぜーんぶ持ち合わせてない(太字は特に欠落しているもの)。

これらはそれまでの社会生活の中で学ぶべきものでしたが、何もしなかったのでなーんにも知らないまま大人になってしまったのです。

 

私は第一印象だけは良いので、最初の二ヶ月は

「真面目な頑張り屋さんで、良い人が来たね」とみんな喜び、優しくしてくれました。私も自分のことをそうだと思っていました。

 

ところが、二ヶ月目に入った頃からどんどん雲行きが怪しくなってきます。

とにかく仕事が出来ない。遅いし間違っている。最悪です。

例えば、私は短期記憶が得意で、狭い視野の中では勘が良いです。だから教えてもらうのはけっこう上手いのです。

ところが、思い出すこと(そもそも考えること)が苦手で、教わったことをメモしません。「なぜ」思い出すことが苦手なのか掘り下げたくなかったので、「私は頭が良いから」とこれまでの成功体験と結びつけて自分を誤魔化し、記憶に全幅の信頼を寄せていました。

これは二重の意味で死にますね。

アイデンティティと信頼の崩壊です。

「私って実はすごいバカなのかな。そもそもなんかみんなと違う。でも何が違うのか分からない。怖い、何も考えたくない」

問題の根が深いことに無意識では気付いていたのでしょう。けれど、当時はそれと向き合えるほど心が育っていなかったので自分を守るため思考停止状態になります。

この状態は傍から見ていると本当に不気味です。何を言われても響かず、ヘラヘラと薄笑いを浮かべているだけですからね。

 

当時の上司は女性で、30歳という若さで課長職を務めるほど優秀な方でした。

私を理解しようと尽力してくださり、その一環で取るようになったメモは機能せず、また、肝心の私がコミュニケーションを拒絶しているせいで上手く行きません。次第に優しい彼女も怒り出し、毎日叱られるようになりました。

当時の私が何を考えていたのかというと

「ルールを守ってくださいってうるさい!」

「新人なんだから少しくらい間違えたっていいでしょ!」

「みんなの前で叱ることないじゃん!ひどい!」

「私のペースで仕事させてよ!」

反省ゼロです。

でも怒られるのは嫌だから「すみませんでした。次から気を付けます」とその場しのぎで謝りますが、何も考えていないので同じミスを繰り返します。しまいには「思ってもいないこと言わないでください!」と叫ばせてしまいました。その時、うつむいた視線の先に彼女の固く握った拳が震えていたのを覚えています。

数少ない女性たちは皆彼女の味方でしたが、遠巻きに私たちのやり取りを見ていました。その代わり、自分の評価は切れ切れに聞こえます。

「こんな人初めて見た。どう接したらいいのか分からない」

「新卒よりひどい」

ところがパッと見、私は上司にいつも怒られている可哀想な新人です。男性はみな同情的で、係長は「ぐみさんの話を聞いてあげてください」と派遣会社の営業担当に連絡をしてくれたし、社長ですら私を心配してくれました。しかしながら、これは自分の問題で、誰かに何とかできるものではない、けれど今の自分にはどうすることも出来ないから放っておいてくれ、と思っていました。

 

◆ 一発逆転はない、辞めるしかない

状況は更に悪化し、「何も任せられない」と言われて仕事を全て取り上げられてしまいました。何もすることがありません。「何か手伝うことはありますか」と聞くのも怖くなり、必死な形相で不明瞭な言葉を発する私を課長は悪意に満ちた顔で笑います。彼女がその頃に精神安定剤を服用していることは知っていました。善良な人を私はここまで追い詰めてしまうんだなぁとぼんやり思ったことを覚えています。また、職場の雰囲気は非常に悪く、地獄のようでした。私のせいなのに、びっくりするくらい他人事でした。

 

こんな状況になったら、もう何をやってもダメです。辞めるしか道はありません。そこで契約終了を待たずに今月末で辞めたいと営業担当に伝えました。本来なら重大な契約違反で、派遣先は怒りますが、新たに窓口となった係長経由で社長まで話がとおり、「可哀想だから」とあっさり許可が下りました。温情で特別対応をしてもらったにも関わらず、数日で「やっぱり月末まで待てません。明日で辞めます」と自分で決めたことを反故にしました。希望は叶いましたが、その派遣会社からは信頼を完全に失い、二度と仕事を紹介してくれることはありませんでした。自業自得ですね。

最終出勤日、課長は彼女の指示で取るようになったメモの機能を果たしていない支離滅裂な走り書きを全てシュレッダーにかけるよう私に言い、その様子を燃えるような目でずっと見ていました。『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』とはこういうことなんだな、と思いました。びっくりするほど他人事のように感じました。最後は形式的な「おつかれさまでした」で送り出され、明日から職場に行かなくていいんだという開放感すら特に感じず、夜のとばりが降り始めた街を無感動に歩いて家に直帰したことを覚えています。

 

Kさんへ。あの頃は本当にすみませんでした。100%私に非があり、あなたは何も悪くありません。今は健やかに過ごされているといいなと思います。こんなダメ人間にお時間と労力を割いてくださってありがとうございました。責任ある仕事を任され、バリバリとこなすあなたは私の憧れでした。

 

その後数ヶ月は、傷ついた心を忘却で癒そうと努め、ひきこもってニコ動やピクシブばかり見ていました。清々しいクズっぷりですね。お前がすることは忘れることじゃない。振り返りと反省に対策を練ることだ。自分と向き合えるほど心が育っていなかったは言い訳だということは分かっています。

同棲してて住むところと食べるものに困らなかったから出来たことですが、今思えば人生の中でモラトリアムしてていい期間なんて存在しません。いつだってその時のベストを尽くさないと、私みたいになるので気を付けてください。夕飯作りと洗濯はしたけど掃除を全くしないだらしない女を追い出さずに一緒にいてくれた元彼、ありがとう。あなたはとても優しい人です。今幸せに暮らしているといいなぁ。

 

次のベンチャー企業でのしくじりを話したいんだけど、3000字を超えてしまったので一旦区切ります。

【しくじり人生⑥】 水商売を上がって昼職にジョブチェンジしたら、自業自得の地獄が待っていた話

インフルの経過が良くなくて、休養期間が伸びそうです。

 

すっかり元気になったと思っていたんだけど、まだ柔らかいうどんを食べていたいので本調子ではないんでしょうねぇ…。

 

ブログ書いてればいっか。

筆ノッてるし。

しくじり人生の振り返りが終わったら、なんか変われそうな気がするし。

その予兆はあるし。

 

前回の記事で触れた、娘の水商売を知った父の暴走を少し前まで許せなかったんだけど、今はどうでもよくなっています。だからこそ、記事に出来るようになったわけだしね。

 

詳細は下記記事をご覧ください。

 

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さて、今回はキャバクラで給料ドロボーをするというその日暮らしから抜け出すために一歩踏み出したキッカケと二十代前半までの話をしようと思います。

 

◆ ダメ人間をやめたい…!

やる気のないキャバ嬢・ぐみさんは、待機席(接客していない女の子たちが座る席のこと。ここでお客さんが来るのを待つ)に座るのが一番の楽しみでした。

そんな中、仲良くなった女の子から夜のお店で働く人たちが集うネット掲示板を教えてもらいました。そうです、ホ●トラブです。検索してみたら今もあるんですね。懐かしい~

このサイトは名前のとおり、ホストの情報交換が主目的ですが、ホストクラブのメイン客層は水商売や風俗などのナイトワーク従事者のため、彼女たちが働くお店のこと、ライバルのことも盛んに情報が交換されていました。

その中でも嬢たちの本音が覗ける雑談のスレッドが好きで、待機席で見ているとあっという間に時間が過ぎるためしょっちゅう見ていました。

夜のお店を辞めたがっている人たちが集うスレッドを見つけるのに時間はかかりませんでした。

 

そこで、誰でも雇ってもらえるコールセンターの仕事があることを知ったのです。

 

人生初の彼氏ができ(ちょくちょく話に出てくる元彼)、水商売を辞めて同棲することを真剣に検討していた私は、一念発起して話を聞きに行くことにしました。

そのため、彼に付き添ってもらって登録会で着るスーツを三万円出して買いました(このスーツは先日、フリマアプリで売却しました。手放したとき、すっごく寂しく思ったのを覚えています)。

 

仕事内容はデータ入力と代理店に不備の電話をかけるだけで、私にも出来そうです。また、前情報通り誰でも雇ってもらえるようです。ただし、一定の期間を経過しても会社側が求めるスキルを満たしていない場合、派遣契約が更新されないという仕組みでした。

 

これはチャンスだと思った私は、その日のうちにキャバクラを飛び(反省してます)、昼職(夜の仕事の人はこう呼ぶ)にジョブチェンジをしました。

 

◆ 初めての昼職、そして次のステージへ

そのコールセンターは数百名の規模で、男女構成比は3:7くらいでした。二十代が多かったような気がします。

大学時代と同じく、周囲に人がたくさん集まってきました。勘違い水商売娘の気分が抜けておらず、「本来は一時間●円を払わないと私とはお話出来ないのよ、オホホ」と腹の中で笑っていました。性根が腐っていますね。頭いて。ハァ。

そんな傲慢さが表に出ていたんでしょうねぇ、女性にはすごく嫌われました。目の前で悪口言われたりとか。

 

仕事面は順調で、ブラインドタッチの練習を空き時間(推奨されていた)でこなし、電話対応の上手い人のやり取りに聞き耳を立て積極的に学ぶ姿勢が功を奏し、一定期間を超えても雇用の継続は保障されました。

このとき嬉しかったなぁ。

「私にも出来るんだ!」って。

飲食バイトで失くした自信を取り戻した瞬間でした。

よく、就職活動で「仕事をしていた中で一番嬉しかったことは何ですか?」と聞かれたけど、私は断然この瞬間だなぁ。当たり前すぎるから面接では言えないけどね。

 

ここで学べることは全て学んだと確信し、一周年を待たずに卒業を決意します。同棲している彼氏も喜んでくれました。

スキルアップを求める私は、仕事を求めて別の派遣会社に登録することにしました。

今思えば、若いんだから働きたい会社にバイトで入って正社員を目指す方法もありましたが、憧れる会社も、やりたい仕事も、出来ることも特になかったし、何より対人関係に自信がなかったから、登録するだけで仕事を用意してもらえる派遣会社は実に都合が良かったんですよね。

派遣社員という仕組みは素晴らしく有難いもの(若さ以外なんのとりえもない私に仕事をくれた)だと思うのに、自身が今も派遣社員であることを恥じる気持ちの意味がちょっと分かったような気がします。

 

◆ 順調なステップアップと思いきや、派遣切りに…

短期の事務派遣を数ヶ月経験したあと、金融業界事務の長期派遣のお仕事が決まります。約一年半(それまでの人生で最長の在籍期間です。うっ、不憫な…)在籍しましたが、ここでも自業自得により、なかなかの地獄を味わいました。

 

私の隣席の人は、二十くらい年上の話好きな女性でした。

開口一番の質問は、確か「最近の若者は休みの日に何をしているの?」だったと思います。その質問には二重の意味で答えたくなかった。なぜならば、お金がなくて(仕送りしてたからな)どこにも出かけられず彼氏と家でオンラインゲーム(FFとマリカー)ばかりして若者らしいことなんて何一つしていないし、何より大人に「同棲してまーす☆」とは言いづらかったからです。

今思えば、「ゲームばかりしてて根暗だとバカにされたらどうしよう(家族がそうだった)」「いつ結婚するの?って聞かれたらどうしよう(子ども時代のトラウマにより心身ともに未熟すぎた私は、覚悟を決められず逃げ回っていました。だから八年も同棲が長引いてしまったのですが。元彼には悪いことをしました)」といった理由をそのまま言えばいいだけの話なのに、「自分のこと話したくない!深く突っ込まれたくない!!」とあろうことか彼女の質問を無視してしまいました。

 

今後も人生の節目でちょくちょく顔を出すのですが、私は対処できない事態に直面すると逃げるんです。時と場合によっては無視に見える。そして無視は立派な攻撃です。最悪ですね。

 

そんなわけで、人の良い彼女も私をじわじわと嫌うようになり、向かい側の人と一緒になって私の悪口を言うようになりました。どうすればいいか分からず放置したそれは段々エスカレートし、お昼休みになると部長へ私の悪口を吹聴するのが日課となったくらいです。

(Uさんへ。好意で私に声を掛けてくださったのに、後ろ足で砂をかけるような無粋な真似をし、その節は大変失礼しました。あの頃は自覚のないトラウマに支配されており、今よりずっと生き辛さを感じていました。かつての自分と似た若者を見つけたら、あなたのように話しかけようと決めています。あなたの持つ明るさは私の憧れでした)

 

深く物事を考えようとすると、頭に靄がかかったようになり思考停止状態になるという不思議な現象に気付いたのはこの頃です。帰宅してからの無気力にも悩まされていました。病気ではなさそうだし、根が深いのは何となく分かったので怖くなって目を逸らしてしまいました…。

 

そんな折、リーマンショックが世界中を襲います。

一気に不況になった企業は、前代未聞の大規模な派遣切りを敢行します。

それは私の就業先でも同じことでした。

私に白羽の矢が立ったのは必然といってもいいでしょう。

毎日苦情を報告するほど特定の社員と関係が悪化している派遣社員なんて全体の士気に関わりますから。

 

少し前まで部長自ら直接雇用の話を匂わせていたのに、あっさりと雇止めに遭いました。

 

でも、根はたくましい私は、ネットで社会保険の知識をかき集め、雇用保険の失業手当をもらいながら職業訓練校に通って簿記の資格を取ることにしました。

無事に合格し、金融系の会社を退職して約半年後、資格を生かした長期派遣の経理のお仕事をゲットしました。そこで、今までの仕事内容は子どもの使いの域であったことを痛感します。新しい地獄の始まりです。